館長 赤嶺 浩
平信賢先生が初代会長を務めた「琉球古武道保存振興会」では、二代目会長を赤嶺栄亮先生、三代目会長を赤嶺浩先生が務められました。
現在は同振興会の会長職を退かれ、「琉球古武道信武館館長」および「沖縄小林流空手無拳会会長」として活動されています。
赤嶺 浩 館長 「沖縄空手の真髄を体現する16名の空手家のスペシャルムービー」
初代館長 赤嶺 栄亮
赤嶺栄亮先生は、伝統古武道の流祖から直接指導を受けた数少ない人物です。24歳で棒術の達人・知念三郎の直弟子であった比嘉誠一郎、比嘉来助、赤嶺要平、比嘉仁三郎らに棒術を師事し、1970年に琉球古武道保存振興会の初代会長・平信賢先生が逝去された後、同会二代目会長に就任されました。翌年には信武館道場を設立されました。
琉球古武道保存振興会 初代会長 平 信賢
平信賢先生の生涯
平信賢先生は、1897年(明治30年)6月12日に沖縄県久米島仲里村にて、父・平樽、母・カマドの次男としてお生まれになりました。3人兄弟の2番目であり、他に2人のご兄弟がいらっしゃいました。平信賢先生の先祖は、久米島の山比嘉殿内という由緒ある家柄の血を引いており、母方は前里家でした。平先生は母方の養子となり、戸籍上は前里姓となりましたが、長年親しんでこられた「平」姓を名乗られました。幼名は真牛(マウシ)といい、幼少の頃は腕白な少年だったそうです。仲里尋常小学校を卒業後、家計を助けるために北大東島へ燐鉱夫として働きに出られましたが、作業中の事故で右足を骨折されました。久米島に戻り静養された後、再び南大東島へ働きに出られましたが、右足が不自由なことから同僚にいじめられ、武術を習うことを決意され、一念発起して東京へ向かわれました。
1922年(大正11年)、25歳の時に船越義珍先生と出会い、門下生となりました。同年9月には、東京小石川区水道橋の盟正塾(空手)に入門し、18年間修行に励まれました。船越先生の右腕として空手道の普及に尽力され、空手紹介の演武では、船越先生が型の演武を行い、平先生が板割り(1寸〈約3センチ〉6枚)を披露されたと言われています。当時、平先生が船越先生と共に空手の指導にあたられていた学校は、以下の通りです。
- 陸軍戸山学校
- 中央大学
- 早稲田大学
- 日本医科大学
- 慶應義塾大学
- 法政大学
- 東京農業大学
- 國士舘大学
- 國學院大學
1929年(昭和4年)、空手指導のため上京されていた屋比久孟伝先生より琉球古武道(棒術と釵術)のご指導を受けられました。1932年(昭和7年)には、群馬県伊香保温泉に船越先生の支部道場を開設され、空手と琉球古武道のご指導にあたられました。翌年1933年(昭和8年)8月には、屋比久先生より琉球古武道の師範免状を授与され、1929年から1940年7月まで引き続き屋比久先生に師事されました。1934年(昭和9年)には、大阪から首里手の大家・摩文仁賢和先生を伊香保温泉町松濤館支部に招き、6ヶ月間師事されました。1940年(昭和15年)10月に帰郷し、那覇市に古武道の道場を開設されました。沖縄および関東・関西において琉球古武道のご指導にあたられました。平先生は、沖縄の古武道が指導後継者もなく日々衰微しつつあることを憂い、「琉球古武道保存振興会趣意書」の中で次のように述べられています。
平信賢先生は、『琉球の古武道をこのまま死滅させるのは忍びない。何とか記録にでも留めて、広く永久に伝承させたい。(中略)この尊い無形文化財である武術を保存するために研究していくのが、我々の義務であり責任であります。古武道が農村の地方に残っていることは文化財として地方に留めないで広く世界に紹介して国民体育の資料として普及させるべきであると確信するものであります』と述べています。1964年(昭和39年)7月1日、全日本古武道連盟総裁・賀陽恒憲殿下より範士の称号を授与され、同年8月には『琉球古武道大鑑』を著されました。
平先生は清貧に甘んじた武人であり、一生を古武道の研究・普及・発展に尽力し、沖縄に伝わる42種類の型を保持し、後輩に遺しました。
1970年(昭和45年)9月1日、那覇市神原の自宅にて、73年の武道一筋の生涯を全うしました。
琉球古武道信武館道場

1971年 赤嶺栄亮先生が設立
1999年 赤嶺浩先生が継承
<所在地>
沖縄県豊見城市字根差部676-3
設 立

沖縄空手・琉球古武道本田道場
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琉球空手・琉球古武道信武館 本田道場