沖縄小林流空手・琉球古武道(術) 慢が原因?
昇級昇段って?
多くの武道(武術)には昇級昇段審査が存在します。また、他に○○資格等、技術の習得段階を表す制度もありますね。(茶道・華道・踊り・書道・・・)
一般企業の人事評価も内容は昇級昇段制度と同種になるんでしょうか?
ではスポーツには?
「野球の黒帯・師範」etc.ないですね。
A級指導員やB級審判員等はあってもこの資格は個人の技術に対する能力評価とはチョット異なるように思います。
明治時代、柔道(講道館柔道)を興した嘉納治五郎が講道館を設立する際に囲碁・将棋を参考として段位制を導入し、段位を帯の色で表すこととした。一方、警視庁では撃剣(剣術)に対して一級から八級までの級位制を導入していた。大正時代に大日本武徳会が剣道・弓道にも段位制を導入し、その後、柔道・剣道・弓道とも段位制の下位に級位制を導入し段級位制とした(これについては警視庁が反発したという)。このため、現在でも初段の下位は一級となっている。
Wiki 引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B5%E7%B4%9A%E4%BD%8D%E5%88%B6
昇級昇段の功罪
シニア世代では昇段昇級に重きを置かず純粋に稽古を楽しんでいる人も多いように感じています。
あくまでも私見ですが「昇級昇段」にはプラス面とマイナス面があると思います。
功=プラス面)稽古の目標・やり甲斐・技術のカリキュラム化etc.
罪=マイナス面)優越感と劣等感・組織内のランキングetc.
「罪=マイナス面」はどうしても人間関係をギクシャクさせます。(一般社会も同様)
なぜ?人間はどうしても比較してしまう!
なぜ?罪=マイナス面が起こるのか?
昇級昇段は審査される者同士を比較するものではありません。
「自分は不合格で〇氏は合格なのか?」「自分と〇氏が同じ級位・段位なのか?」「自分の方が熱心に稽古したいた」etc.
自分と他者を比較する思い(優越感・集団内のランキング)が不満につながるのでしょう。
(完全な評価基準の有無も原因の一つ)
問題は「謙虚に比較できない事!」「客観的(俯瞰)に自分を理解できない事!」
自分自身を贔屓目に見る
「〖慢〗 マン おこたる・あなどる」と言う言葉があります。
1.他を軽んじて自らをよしとする。たかぶる。 「慢心・傲慢(ごうまん)・我慢・自慢・驕慢(きょうまん)・高慢・暴慢」
まん/慢
思い上がって人を侮ること。Ⓢmānaの訳語。その種類として、七慢・八慢・九慢等さまざまなものがあるが、代表的な七慢は次のとおり。①慢(Ⓢmāna)劣ったものに対してすぐれていることを自慢し、同等なものに対して、同等であることを、ことさらに強調する。②過慢(Ⓢatimāna)同等であるものに対してすぐれているとし、すぐれているものに対して同等と見る。③慢過慢(Ⓢmāna-atimāna)すぐれているものに対して、逆に自分がすぐれているとする。④我慢(Ⓢasmi-māna)自分の心身を永遠不変のものと捉える。⑤増上慢(Ⓢabhimāna)覚りを得てもいないのに覚ったとする。⑥卑慢(卑下慢とも。Ⓢūnamāna)はるかに劣っているのに、少し劣っているだけと見る。⑦邪慢(Ⓢmithyāmāna)徳がないにもかかわらずあるとする。
浄土宗大辞典より
精神的な平静を保つ自己防衛?
生涯白帯
異論はあるでしょうが「ラジオ体操」のように気軽に・楽しく・人と比べず・個人のペースで稽古する為に昇級昇段審査は不必要なのかもしれません。
いつまでも生涯白帯・唯の修行者でありたいものです。
琉球空手・琉球古武道信武舘 本田道場
Ryukyu Karate Kobudo Honda Dojo